2021年9月26日 礼拝 岡田順一牧師
「明日への希望」イザヤ書 22章9〜14節
「その日、万軍の主なる神は『泣き、嘆き 髪をそり落とし、粗布をまとえ』と呼びかけられた。ところが、お前たちは…『食べたり飲んだりしよう どうせ明日は死ぬのだから』と言う。」(イザヤ書22:12〜13)
①エルサレムの危機と不信仰。
「お前たちは町を造った方に目を向けず」(11) アッシリアによる危機が近づいた時、エルサレムの人々は創造主に目を向けず、不信仰によって神に裁かれました。
②不信仰による希望の喪失。
「神は『泣き、嘆き 髪をそり落とし、粗布をまとえ』と呼びかけられた。」主は民に自分の罪を認めて悔い改めを求めました。しかし民は「どうせ明日は死ぬのだから」と言いました。不信仰が明日への希望を喪失させました。
③明日への希望に生きる。
「死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしよう どうせ明日は死ぬのだから』ということになります。」(コリント一15:32) パウロはコリントの信徒に復活を信じないなら、イザヤ22章の民のように希望を失うことを告げました。復活の信仰こそいかなる時にも明日への希望を失わない秘訣です。
2021年9月19日 召天者記念礼拝 岡田順一牧師
「必ず朝は来る」イザヤ書 21章6〜12節
「見張りは言った。『朝は来る、だが、まだ夜だ。尋ねたければ尋ねよ。もう一度来るがよい。』」(イザヤ書21:12)
①この世の夜と朝。
セイルの使者がイザヤに「今は夜の何時か。」(11) と尋ねました。夜とは、当時の大国アッシリアの侵略を意味し、何時とは、その恐れがいつまで続くのかとの問いでした。神はイザヤを通して使者に「朝は来る」と答えました。神に頼る時、夜という試練も、やがて朝という勝利を迎えることができます。
②創造主による夜と朝。
神は「朝は来る」との言葉の後に「だが、まだ夜だ。」と告げました。神は光を創造された時「光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれ」(創世記1:4~5) ました。夜が続くような現実があっても、夜も朝も神の御手の中にあるのです。
③キリストによる夜と朝。
キリスト誕生の時、東方の博士たちは星に導かれて夜旅をし、羊飼いたちは夜野宿している時天使によって救い主に会いました。この世の夜、罪の世にキリストは誕生されました。キリストは日曜日の朝復活されました。死という最大の夜を迎えても信じる者は復活の朝を迎える希望があります。
2021年9月12日 礼拝 岡田順一牧師
「神のしるしである私たち」イザヤ書 20章1〜6節
「主は言われた。『私の僕イザヤが、エジプトとクシュに対するしるしと奇跡として、裸、はだしで三年間歩いたように、…』」(イザヤ書20:3)
①神の恥ずべき警告。「アッシリアの…将軍がアシュドドと戦い、それを占領し」(1) アシュドドとはペリシテ人の要塞です。ペリシテ人はエジプトに唆されてアッシリアに挑みましたがエジプトに裏切られて敗北しました。裏切ったエジプトとクシュに神はやがてアッシリアを通して恥ずべき裁きに遭う警告をされました(4)。
②イザヤを通してのしるしと奇跡。
「イザヤが、エジプトとクシュに対するしるしと奇跡として、裸、はだしで三年間歩いたように、」しるしとはイザヤが神の言葉に従うことであり、その結果、エジプトとクシュの人々が悔い改めるという奇跡が起こります。
③キリスト者の証しの生活。
神はイザヤが裸、はだしで歩むという生活を用いて人々に語られました。「あなたがたは、私たちが書いたキリストの手紙であって、」(コリント二3:3) キリスト者はその生活における証しを通してキリストの手紙として歩むべきです。
2021年9月5日 礼拝 岡田順一牧師
「中心に立つ神」イザヤ書 19章16〜25節
「その日には、エジプトの地の中心に、主のために祭壇が建てられ、その地の境には、主のために石の柱が立てられる。」(イザヤ書19:19)
①エジプトの罪。
「彼らは、偶像、死者の霊 霊媒、口寄せに伺いを立てる。」(3) エジプトの罪は偶像礼拝です。偶像とは人間が自分の欲望を実現するために作り出したものです。偶像の満ちる所は人間の欲望の満ちる所です。そこに神の裁きがもたらされます。
②エジプトへの神の裁き。
「私はエジプトをエジプトに刃向かわせる。」(2) エジプトへ神は第一の裁きとして内戦を起こさせました。「強力な王が彼らを支配する」(4) 第二の裁きは外敵の侵略です。
③エジプトの回復への道。
エジプトの回復は「エジプトの地の中心に、主のために祭壇が建てられ、」と預言されています。神が中心に立つことが回復の道です。エジプト王に「神の霊が宿っている」と言われたヨセフがエジプトの中心に立った時、エジプトは豊かな祝福に与りました(創世記41:38~49)。私たちも神を心の中心に置く時、私たちが行く所に神の祝福をもたらすことができます。
2021年8月29日 礼拝 岡田順一牧師
「見つめておられる神」イザヤ書 18章1〜7節
「私は静かに私の住まいから見つめていよう。照りつける太陽の暑さのように 暑い刈り入れ時の露の雲のように。」(イザヤ書18:4)
①創造主として見つめる神。
アッシリアを恐れるクシュ(今日のエチオピア) の使者に主は「私は静かに私の住まいから見つめていよう。」と言われました。「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。」(創世記1:31) 被造物に満足なさった同じ眼で主はクシュの人々を見つめられました。「クシュの全域を巡る川であった。」(創世記2:13) 主はクシュの大河を見つめました(1,2,7)。主は私たち一人一人の良い個性を見つめておられます。
②救い主として見つめる神。
「万軍の主に贈り物がもたらされる。」(7) やがてクシュの人々が救われて主に感謝の献げ物がなされることが預言されています。イザヤの時代から約七百年後に主の弟子であるフィリポが天使の指示でガザに行き、聖霊の導きによって馬車に近づきイザヤ書を呼んでいたエチオピアの宦官を導きました(使徒言行録8:26~39)。見つめておられる主の御手の業です。
2021年8月22日 礼拝 岡田順一牧師
「造り主を仰ぐ人」イザヤ書 17章1〜11節
「その日には、人は造り主を仰ぎ、その目はイスラエルの聖なる方を見る。もはや、自分の手で造ったものである祭壇を仰がず、自分の指で造った、アシェラ像や香の祭壇を見ることもない。」(イザヤ書17:7〜8)
①救いの神を忘れる罪。
エフライム(北イスラエル)は同民族である南ユダをアラムと連合して攻撃しました(7:1)。このエフライムの行為は「あなたは救いの神を忘れ去り」(10) と、神を忘れる罪と指摘されています。「その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない。…あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者である。」(ルカ12:6~7) 私たちを忘れないと言われる主を生涯信じ続けましょう。
②救いの神への回復。
エフライムの中に救いの神に立ち返る人々がいました。彼らは偶像礼拝の罪を犯していましたが「もはや、自分の手で造ったものである祭壇を仰がず、自分の指で造った、アシェラ像や香の祭壇を見ることもない。」と、彼らは自分の手、指を見つめた時、その創造の素晴らしさのゆえに造り主を仰ぎ、その心の汚れのゆえに聖なる方に回復することができました。
2021年8月15日 礼拝 岡田順一牧師
「唯一の救いの道」イザヤ書 16章1〜5節
「王座が慈しみによって堅固に立てられる。一人の裁く者 公正を求め、正義を速やかにもたらす者が ダビデの幕屋で、真実をもって、その座に着く。」(イザヤ書16:5)
①モアブの救いの道。
「地の支配者に小羊を送れ。」(1) 神はイザヤにモアブの救いの道はイスラエルに小羊を送ることだと告げました。小羊を送るとは犠牲を払うことです。救われるための犠牲は自分の罪を認め告白し、悔い改め、救い主を受け入れることです。
②私たちの救いの道。
私たちにとって小羊とはキリストです。ヨハネはキリストを「世の罪を取り除く神の小羊」と呼びました。(ヨハネ1:29) 「キリストは唯一の献げ物」(ヘブライ10:14) として全人類が罪から救われるために十字架にかかり救いの道を開かれました。
③救いの道を歩み通すために。
「一人の裁く者」(5) こそ唯一の救い主です。このお方によって開かれた救いの道を歩み通すためには第一に慈しみによって堅固に立てられた王座を仰ぎ続けることです。それは礼拝の座、祈りの座における主との交わりです。第二に救い主が私たちの心にある王座「その座に着く」(5) ことです。
2021年8月8日 礼拝 岡田順一牧師
「愛する人への叫び」イザヤ書 15章1〜9節
「私の心はモアブのために叫ぶ。…彼らはルヒトの坂を泣きながら上り ホロナイムの道で破滅の叫びを上げる。」(イザヤ書15:5)
①モアブの罪。
「モアブは滅ぼされた。」(1) 滅びに至ったモアブの罪について「モアブ人は、主の会衆に加わることはできない。…あなたがたがエジプトから出たとき、その途上で彼らはパンと水を用意してあなたがたを迎えず、」(申命記23:4~5) とあるように出エジプトした民をモアブは迎えず、その領土を通ることを拒みました。
②罪人のための涙の祈り。
イザヤ書15章には泣くと叫ぶが繰り返されています。この二つの言葉は執り成しの祈りの二大要素です。泣くとは愛する人が滅びることを嘆く涙です。叫ぶとは愛する人の救いを切実に願う人の祈りです。イザヤは敵対するモアブのために「私の心はモアブのために叫ぶ。」と祈りをささげました。アブラハムがロトの救いのために執り成しの祈りをささげた結果、救われたロトからモアブが生まれました(創世記19:36~37)。イザヤはアブラハムの心を我が心としてモアブのために祈りました。
2021年8月1日 礼拝 岡田順一牧師
「滅亡か、救いか」イザヤ書 14章1〜8節
「主があなたを、苦しみと悩み…から解き放たれる日に、あなたはバビロンの王についてこの嘲りの歌を歌う。『ああ、虐げる者は滅び、抑圧は終わった。』」(イザヤ書14:3〜4)
①バビロンの犯した罪。
バビロンに支配されていた人々によってバビロン王は悪人と呼ばれると預言されています(5)。神様は「悪人たちをその罪のゆえに罰する。」(13:11)お方です。バビロン王の罪は「お前の高慢」と告げられています。バビロン王は「いと高き方のようになろう」(14)と神を侮りました。バビロンの起源は「バベル」です。人々は「塔の頂は天に届くようにして、名を上げよう。」(創世記11:4)と天に届く塔を築いて高慢の罪を犯しました。
②バビロンにならないために。
後に信仰の父と呼ばれたアブラムはカルデアのウルで生活していました。この地域はバビロンに相当します。神様はアブラムに「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ 私が示す地に行きなさい。…あなたは祝福の基となる。」(創世記12:1~2)と告げられました。高慢なバビロンから離れることを通してこそ神の豊かな祝福に与かることができます。
2021年7月25日 礼拝 岡田順一牧師
「神の慈しみと審判」イザヤ書 13章1〜8節
「万軍の主が戦いの軍勢を召集している。彼らは遠くの地から、天の果てからやって来る。全地を滅ぼすために、主とその憤りの武器が。」(イザヤ書13:4〜5)
①バビロンへの神の裁き。
神に逆らうバビロンへの神の裁きは、罪人への神の裁きでもあります。神の裁きは第一に応報的。「私は、世界をその悪のゆえに罰し 悪人たちをその罪のゆえに罰する。」(11) 悪、罪に対しての裁きです。第二に徹底的裁き。「神がソドムとゴモラを覆した時のようになる。」(19) (創世記19:24~25) 第三に確定的裁き。「その日が先延ばしにされることはない。」(22)
②罪人に対する神の慈しみ。
イザヤ書は預言書であり、記されている裁きはやがてもたらされます。前もって神の裁きを知らせてくださる所に神の慈しみがあります。神の裁きが応報的に悪、罪に対してもたらされることを前もって知らされるなら、自分の内側を探って示される度に悔い改めることが出来ます。神の裁きが徹底的であり、確定的であると前もって知らされるなら。救いの決心を先送りせず今日、決心することを促されます(コリント二6:2)。
2021年7月18日 礼拝 岡田順一牧師
「救いの泉」イザヤ書 12章3〜6節
「あなたがたは喜びのうちに 救いの泉から水を汲む。」(イザヤ書12:3)
①救いの喜びの拡散。
喜びのうちに、喜び歌え、3~6節は救いの喜びに満ちています。1~2節においては「私は」が繰り返され個人的救いが記されていました。ところが4節では「あなたがたは」と複数に変わりました。それは個人的救いがそこに救いの喜びが満ちる時、喜びが他者に拡散することを意味しています。
②救いの喜びの源泉。
「喜びのうちに 救いの泉から水を汲む」救いの泉こそ救いの喜びの源泉です。仮庵祭において民はシロアムの池の水をイザヤ書12章を賛美しながら神殿に運びました。その時主イエスは民に「渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37) と言われました。救いの泉とはイエス様ご自身です。さらに「私を信じる者は、…その人の内から生ける水が川となって流れ出る」(ヨハネ7:38) と言われました。それは聖霊の働きです。救いの泉とは聖霊のことであり、私たちの内に聖霊が満ちる時私たちの内から救いの喜びが他者に溢れていくのです。
2021年7月11日 礼拝 岡田文美佳副牧師
「憐れみ深い主の前に」マルコによる福音書 6章30〜34節
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコによる福音書6:34)
①残らず報告した。
伝道旅行からイエス様のもとに帰ってきた弟子たちは目の前で起こった癒やし、回復、救いの聖業の一つ一つを報告しました。主の前に私たちのすべての荷をおろしましょう。主は、受け留めてくださいます。
②寂しい所へ行き、しばらく休みなさい。
私たちの必要のすべてを知っておられる主が私たちを休みへと招かれます。私たちは、人を避け、イエス様の前に静まることが必要です。
③憐れみ深い主の心を知る。
イエス様は憐れみ深い(はらわたに痛みを覚えるほどに人々の苦しみ、痛みを受けとめてくださる)お方です。このイエス様のもとで静まり、休むとき私たちは立ち上がって次に進む力が与えられます。主イエス様は、ご自分の憐れみ深い心を私たちにも求められます。そして、与えてくださいます。私に託されている方々に、イエス様の心をもって仕える者とさせていただきましょう。
2021年7月4日 礼拝 岡田順一牧師
「私の救いである神」イザヤ書 12章1〜2節
「見よ、神は私の救い 私は信頼して、恐れない。主こそ私の力、私の歌。私の救いとなってくださった。」(イザヤ書12:2)
①慰めとしての救い。
「あなたは私に怒りを向けられましたが その怒りを去らせ、慰めてくださいました。」(1)
イザヤは「慰め」を「救い」と同じ意味にとらえていました。イエス様が誕生された時「私はこの目であなたの救いを見た」と言ったシメオンは「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいました。(ルカ2:25,30) この慰めとしての救いを手に出来る人とは「主よ、私はあなたに感謝します。」(1) と、その心が神への感謝に満ちている人です。
②私の救いである神。
2節に「私の救い」が2回記されています。「神は私の救い」とは信仰によって堅持している魂の救いの経験です。神が「私の救いとなってくださった。」とは、今現在あるいは未来に起こってくるであろう人生の試練、苦難に際しても私の魂を救ってくださった方は、そこからも救い出してくださるということです。それを手にするためには「私は信頼して」この信頼の意味は大地に大の字になるように神に全くお任せすることです。