2018年12月30日 礼拝 岡田順一牧師
「天を仰ぐ感謝の目」ルカによる福音書 10章1〜24節
「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカによる福音書10:20)
①神の派遣への感謝。
「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす」(3)イエス様は72人の信徒を宣教に派遣されました。私達も一年間礼拝を守らせていただき、そこからそれぞれの家庭に職場に地域に学校に遣わされました。この神の派遣に感謝すべきです。
②宣教の働きへの感謝。
主は信徒に二つの言葉を託されました。第一に「この家に平和があるように」(5)隣人に神の平和をもたらすために奉仕したならばそれは宣教です。第二に「神の国はあなたがたに近づいた」(9)主が共におられることを伝えることです。私たちがこの一年も主によって宣教出来たことを感謝しましょう。
③天を仰ぐ感謝。
帰ってきた信徒たちはその成果を誇る人、成果のなさに落胆する人がいました。彼らに主は「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と喜びの基準が天にあることを示されました。天を仰ぐ時、成果は主のゆえであり、成果がなくても天の可能性を信じて感謝することが出来るのです。
2018年12月23日 クリスマス礼拝 岡田順一牧師
「最も小さい者のクリスマス」ルカによる福音書 9章46〜48節
「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(ルカによる福音書9:48)
①クリスマスの意味、目的。
「わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(48)父なる神が全人類の救いのためにキリストをこの世に遣わされたのがクリスマスの意味。私たちが救い主イエス様を受け入れて救われることがその目的。
②キリストを受け入れるとは。
「この子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(48)「この子供」とは神に愛されている一人一人です。「この子供を受け入れる」とは神のすべての人に対する愛を信じ受け入れることです。キリストを受け入れる幸いは、いかなる時にも神の愛を信じることが出来ることです。
③キリストの愛の心に生きる。
「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」キリストは最弱の赤ちゃんとして生まれ、最低の飼い葉桶に寝かされました。キリストは私たちを理解し助け愛するために小さい者となられました。私たちもこのキリストを心にお迎えすることを通して小さい者となることが出来ます。
2018年12月16日 アドベント第三主日礼拝 岡田順一牧師
「キリスト誕生の目的」ヘブライ人への手紙 10章1〜10節
「そこで、わたしは言いました。『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」(ヘブライ人への手紙10:7)
①キリストは目的をもって世に来られた。
父なる神の「御心を行うために」キリストは誕生されました。神の御心とは「すべての人々が救われ」ることです(テモテ一2:4)。キリストはすべての人々の救い主となることを目的としてクリスマスに誕生されました。
②キリストはこの目的のためにふさわしいお方である。
「聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり」キリストこそ救い主来臨の預言の成就でした。私たちと同じ人間となられましたが罪を犯すことなく(4:15)、「ただ一度」(10)「唯一の献げ物」(14)としてすべての人々の罪の赦しのために十字架にかかられました。
③キリストは神の御心を行うことを望まれた。
「御旨を行うことをわたしは望み」(詩編40:9)「わたしは来ました」と信じる者の心の中にも主は来てくださったのです。それはキリストが神の御旨を行うことを望んだように、私たちも神の御旨を行うためです。
2018年12月9日 アドベント第二主日礼拝 岡田順一牧師
「よこしまな時代に救いを」ルカによる福音書 9章37〜45節
「イエスはお答えになった。『なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。』」(ルカによる福音書9:41)
①よこしまな自分を認める必要。
私たちは自らについてよこしまな性質であることを認める必要があります。それは神との関係が真っ直ぐではなく、曲がってしまっている状態です。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。」(出エジプト32:9・新改訳「実にうなじのこわい民だ。」)偶像礼拝した民に彼らが神の言葉に対して「はい、従います」と頭を下げて従えない現実を指摘されました。
②よこしまな時代に注がれた神の愛。
よこしまな時代にキリストは誕生され、悪霊に取りつかれて苦しむ子の父に「あなたの子供をここに連れて来なさい」と言われました。「ここ」とは愛なる神の所です。そこに備えられていますのは「あなたがたと共にいて」愛なる神の臨在です。そして「我慢し」神の忍耐です。愛なる神は私たちを支え、御国に至るまで忍耐してくださるのです。
2018年12月2日 アドベント第一主日礼拝 岡田順一牧師
「神の御子イエス」ルカによる福音書 9章28〜36節
「『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。」(ルカによる福音書9:35〜36)
①神の御子としての変貌。
「イエスの顔の様子が変わり」(29)この変貌はイエス様が天国における神の御子の霊的お姿に一時お戻りになられたのでした。この変貌は主が十字架の死と復活の予告をされた直後に起り、神の御子の犠牲を証明なさったのでした。
②祈りにおける変貌。
主の変貌は「祈っておられるうちに」(29)起りました。祈りは父なる神との交わりであり、祈る人に霊的感化が及びます。私たちも日々の祈りの生活を通して「栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられ」(コリント二3:18)ることが起ります。
③救いの証明である変貌。
主がモーセとエリヤに救いについて話しておられたとき、天から「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」との声がしました。これは全人類への神のメッセージです。救いを成し遂げるのは神の御子であり、選ばれたこのお方以外にはなく、このお方に聞き従う者に救いはもたらされるのです。
2018年11月25日 礼拝 岡田順一牧師
「救い主イエス」ルカによる福音書 9章18〜27節
「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『神からのメシアです。』」(ルカによる福音書9:20)
①メシアによる全人格的養い。
「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやし」(11)イエス様は求めてくる人々を御言葉によって、祈りによって、食物によって全人格的に養いご自分が真の救い主であることを証明されました。
②メシアに対する信仰告白。
ペトロはイエス様を「神からのメシアです」と心から告白しました。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(コリント一12:3)イエス様が真のメシアであるがゆえに心からの信仰告白が生じるのです。
③メシアの歩みを我が歩みとする。
「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23)これは私たちへの主の願いであり、預言でもあります。父なる神は独り子を私たちのために捨て、神の御子は私たちのために命を捨てられました。その真実のゆえに従う者は自分を捨てて主にお従いするのです。
2018年11月18日 礼拝 岡田順一牧師
「救い主による祝宴」ルカによる福音書 9章10〜17節
「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。」(ルカによる福音書9:16~17)
①キリストの愛の心を我が心とする。
「イエスは…大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ」(マルコ6:34)イエス様が一万人ほどの人々を養おうとされた動機は深い憐れみでした。その同じ心をもって「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13)と主は弟子たちに勧め、私たちにも願っておられます。
②奉仕の力を与えるキリスト。
「フィリポは、『…二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう』と答えた」(ヨハネ6:7)「あなたがたが」(13)と言われても弟子たちには養う力はありませんでした。主はあえてそれを認識させ、奉仕の力を与えようとされました。
③献げるものを用いるキリスト。
「パン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども…何の役にも立たないでしょう」(ヨハネ6:9)少年が献げたものは何の役にも立たないように見えましたが、イエス様の手に握られたときに素晴らしく用いられました。
2018年11月11日 特別伝道礼拝 山中智貴牧師(日本ホーリネス教団旭川福音教会牧師)
「愛といのちに包まれて」ルカによる福音書 7章11〜17節
「近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。」(ルカによる福音書7:14)
①不幸を負われる主イエス。
「ある母親の一人息子が死んで…その母親はやもめであって」(12)やもめの母親が一人息子を亡くすとは不幸の絶頂、悲しみ、絶望の深さを表しています。その母親に主は「もう泣かなくともよい」(13)と言われ、近づいて棺に手を触れられました。死体に触れることは自らを汚す行為でしたが、主はあえて棺に触れることを通して自らがこの母親の不幸、悲しみ、絶望を負ってくださり、その涙をぬぐってくださったのです。
②死の行列から命の行列へ。
「イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた」(14~15)一人息子の死の行列と主イエスを先頭とした命の行列が出会った時、死の行列は命の行列に飲み込まれました。「イエスは息子をその母親にお返しになった」(15)主イエスの十字架と復活の力は人生をも取り戻させてくださるのです。
2018年11月4日 礼拝 岡田文美佳副牧師
「主の恵みの晩餐」マルコによる福音書 14章22〜26節
「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイによる福音書26:28 )
聖餐式は恵みの手段です。
私たちの信仰生活は、み言葉により、祈りによります。形によらない信仰生活の中で聖餐式は、数少ない手段しかもこれは主イエスによって制定された恵みの手段です。
①主の苦難の記念。
私の救いが、主の十字架の贖いによってであることを思い起こす時です。
②主の臨在の喜び。
今主は生きておられ私と共にいてくださるという主の臨在を覚えることができる時です。
③教会の感謝のささげもの。
やがて、天において顔と顔とを合わせて主にお会いできる前もって味わう時です。感謝にあふれて聖餐に与りたいものです。
聖餐式は主の招きです。
主によって制定された聖餐式は教会に託され、教会は聖餐式を主の名によってバプテスマを受けた者が与ることのできる聖礼典です。しかし、未受洗の方々を差別するためでも排除するためでもなく、恵みの贖いへの大いなる招きです。「一日もはやく・・・」と言われる祈りに、お応えし信仰の決心がなされる方がおこされますように。
2018年10月28日 礼拝 岡田順一牧師
「十二弟子の派遣」ルカによる福音書 9章1〜9節
「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。」(ルカによる福音書9:1)
①神の国を宣べ伝えるための派遣。
主イエスが十二弟子を遣わしたのは「神の国を宣べ伝え」(2)させるためでした。神の国とは神の支配であり、大黒柱が家を支えているように神様が私のすべてを支えていてくださる事実です。神の国を宣べ伝えるとは神が独り子を与えるほどに私を愛してくださり、その方が常に私と共にいて、私の人生を支えていてくださることを伝えることです。
②派遣のために与えられている力。
主イエスは弟子たちを派遣するために彼らに悪霊に打ち勝つ力、病気をいやす力、御言葉の権能を授けられました(1)。しかし彼らは最初その力を発揮することが出来ませんでした(37~40)。弟子たちにはその力がなかったのでしょうか。主は弟子たちに「旅には何も持って行ってはならない」(3)と言われました。それは、私たちがこれが無いので何も出来ないと思っているものは何もいらないということです。全能の神を信じる信仰があれば、神が必要な力を発揮してくださるのです。
2018年10月21日 礼拝 岡田順一牧師
「信仰を告白する恵み」ルカによる福音書 8章43〜48節
「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。』」(ルカによる福音書8:48)
①絶望が主イエスに出会う準備となった。
「十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた」(43)
彼女は人的にも経済的にも絶望しイエス様の所へ来ました。人間のピンチは神のチャンスとなります。
②信じる者をいやす主イエス。
「イエスは、『だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ』と言われた」(46)
多くの群衆がイエス様に触れる中で、この女性のタッチだけが彼女にいやしをもたらしました。それは彼女が主イエスを信じて触れたからです。主イエスは信じる者にいやしを与えられます。
③公に信仰を証しする恵み。
「イエスは、『わたしに触れたのはだれか』と言われた」(45)
主イエスは彼女が公で証しするために探されました。それは彼女が実体験したことについて「あなたの信仰があなたを救った」(48)と告げるためでした。人生の次のピンチの時にも彼女が信仰によってそれを乗り越えるためにです。
2018年10月14日 礼拝 岡田文美佳副牧師
「必ずそこにいます主」詩編 46篇1〜12節
「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」(詩編46:2)
私たちは誰もが苦難の時、悩める時を経験します。その中で私たちは神を見、神の声を聴くことができます。
①神様は私たちの助けです。
神様は、人生の苦難の時、最も近くに在まして確かな助けをくださいます。神様のくださる助けは二つです。
(1)避けどころとして。危機的な状態にあって安全な避難所となってくださいます。
(2)砦として。私が立ち上がっていく力としての方法をそなえてくださいます。
②力を捨てよ、知れ わたしは神。
この詩編には南王国ユダのヒゼキヤ王とアッシリアの国との戦いのことが背景にあると言われています。行き詰まりを覚える絶体絶命の中でヒゼキヤは、預言者イザヤと共にただ神の臨在を求めます。そして、この大きな戦いに勝利を収めました。私の歩みの危機的状況、いえ、ことあるごとに、ただ神様のご臨在を求めて静まり、立ってゆくことが必要です。
2018年10月7日 礼拝 岡田順一牧師
「キリストによるいやし」ルカによる福音書 8章26〜39節
「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」(ルカによる福音書8:39)
①奉仕の備えのための嵐。
「イエスが…『湖の向こう岸に渡ろう』と言われた」(22)
向こう岸はゲラサ人の地方であり、そこには悪霊に取りつかれた男が待っていました(26~27)。途中における嵐は向こう岸における難しい魂を導くための弟子たちへの備えでした。
②人間関係をいやすキリスト。
悪霊に取りつかれた男は「衣服を身に着けず…墓場を住まいとしていた」(27)
彼は人間関係が破綻していましたが、イエス様との出会いによって「服を着、正気になってイエスの足もとに座」(35)りました。彼にとって御言葉を聞き、愛の注がれるイエスの足もとこそ安息の場だったのです。
③私自身をいやすキリスト。
「神の子イエス、かまわないでくれ」(28)
悪霊に取りつかれた男は神の子にも期待しないあきらめの人生を歩んでいましたが、イエス様によって人生が変えられました。「神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」主は私自身の人生をも変えて希望を与えてくださいます。